私は昨年、クリスチャンの友人に、東京の某所にある喫茶店に連れていってもらいました。その店舗はビルの地下にあってこじんまりしており、チェーン店にはない、古き良き喫茶店の雰囲気にあふれています。その店にこもってコーヒーを飲んでいると、地上、つまりお店の外では何が起きているかわからなくなります。私はカウンターに友人と並んで座り、マスターと差し向かいになって談話しながら、この店に出入りする常連さんとともに「秘密の空間」を醸し出す、なんともいえない気分を、おいしいコーヒーとともに味わったものでした。
先日私は、そのマスターのお話を聞く機会があったのですが、お店はコロナの影響で、常連さんが減ったり、近隣のオフィスから定期的に来ていたコーヒーの出前の注文が来なくなったりしているそうです。お客さんたちに心地よい空間を提供するのがお仕事のこの方にとって、売り上げの減少もさることながら、人とのふれあいが希薄になったことは、とてもきついことではないだろうかとお察ししました。
それでもマスターは、お客さんがいらっしゃるかぎりお店を閉めません。このお姿に私も学ばされます。コロナ流行が巷間叫ばれるようになって久しいですが、それでも礼拝堂には、訪問してこられる方が今もいらっしゃいます。それは、ここ長岡の地にそびえ立つ礼拝堂は、行き交う人々に、この世には救いがあることを雄弁に語っているからでしょう。救いを求める方々のその求めがあるかぎり、私はあのマスターのごとく、道を求める方々と、日常生活で起きていることを気にしないで、何でも話せる場所を提供してまいりたいと思います。
なお、あのマスターは、とてもおいしいコーヒーで勝負していらっしゃいます。私が淹れるコーヒーなどマスターの足元にも及ばず、そんなことでは勝負できません。しかし、この礼拝堂に来られる方々は、コーヒーではなく、聖書のことばとお祈りを求めていらっしゃるわけです。マスターがコーヒーを淹れる技術を日々磨くように、私もみことばを提示し、とりなして祈るにふさわしいことばを紡ぐべく、日々研鑽を重ねてまいりたいと思います。
武井俊孝(保守バプテスト同盟 水戸第一聖書バプテスト教会 牧師)